寺田寅彦は物理学者として功績を残しながら随筆家としても有名です。
そんな寺田寅彦の名言「天災は忘れたころにやってくる」、の意味やなぜこの言葉を残したのか、
人気の随筆や、実は自身も関東大震災を経験していたことなどを紹介していきます。
目次
1. 寺田寅彦「天災は忘れたころにやってくる」の名言
寺田寅彦は数々の名言をこの世に残していますが、その中でも最も有名な名言と言われているのは「天災は忘れたころにやってくる」です。
天災は人々の記憶が薄れたころにまたやってくるという意味があり、災害警句として現在でも数多く引用されている名言です。
寺田寅彦は戦前、物理学者として地震や台風などの天災を研究していたことから、日本国民に対して天災についての理解や危機感を深めてほしいという思いもあって
この名言を残したのかもしれませんね.
また、この名言は随筆家としても有名な寺田寅彦が随筆の作品の中で書いた言葉ではなく、講演会の際に発言したと言われています。
寺田寅彦は「天災は忘れたころにやってくる」の名言の他にも「戦争はしたくなけらばしなくても済むと思うが、地震はよしてくれと言っても待ってはくれない」などの
天災、防災に関しての名言が数多く残っています。
2. 寺田寅彦の随筆が人気
寺田寅彦は物理学者として数多くの研究による功績を残しているだけでなく、随筆家としても数多くの功績を残しています。
上記でも紹介した天災に関する随筆「天災と国防」や「天災と日本人」は、日本に数多く襲い掛かる天災を科学者という目線から書いている作品です。
これらは天災の多い日本人にとって今でも度々注目される随筆です。
「どんぐり」は若くして亡くなった妻の夏子との思い出が書かれた随筆で、妊娠中でありながら病気を患っていた妻を植物園に連れていき、そこでどんぐりを無心に拾い集めていた
妻との思い出です。
「あけて六つになる忘れ形見のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びにきて、昔ながらの団栗を拾わせた」。
はしゃぐ子を眺めながら、「亡妻のあらゆる短所と長所、団栗のすきな事も折鶴の上手な事も、なんにも遺伝して差支えはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、
この児に繰返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである」といった内容です。
また寺田寅彦は、夏目漱石の弟子という関係もあり、「病室の花」というタイトルで当時胃の病気を患っていた夏目漱石に花を持って見舞いに行ったときの随筆が残されています。
「N先生が病気重態という報知を受けて見舞に行った時の事を想い出した。あの時に江戸川の大曲りの花屋へ寄って求めたのがやはりベコニアであった。
紙で包んだ花鉢を大事にぶら下げて車にも乗らず早稲田まで持っていった」という内容が書かれており、こちらも人気な随筆の一つです。
3. 寺田寅彦、関東大震災を経験
随筆で数多くの防災、天災に関しての名言を残している寺田寅彦ですが、自身も1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災を経験しています。
関東大震災の翌年に随筆「鑢屑(やりくず)」で防災名言を残しています。
「大正十二年のような地震が、いつかは、おそらく数十年の後には、再び東京を見舞うだろうということは、これを期待する方が、しないよりも、より多く合理的である」
これは今後、関東大震災と同じかそれ以上の天災がまた襲い掛かってくることを危惧している寺田寅彦が日本人に警告している名言です。
自分自身が関東大震災を経験し、その恐ろしさを知っているからこそ、自分が伝えていかなければならないと思い、多くの天災に関する随筆を残したのかも知れませんね。
4. おわりに
寺田寅彦は自身も関東大震災を経験したからこそ天災に関する随筆を多く残し、「天災は忘れたころにやってくる」という名言も残されたんですね。
いま世界中で様々な天災が起こっている中で、改めて寺田寅彦の残した名言を考えなすいい機会かもしれませんね。
ここまでお読みいただきありがとうございます。