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2024年に発行された新しい一万円札の肖像に選ばれたのが、実業家の渋沢栄一です。
日本の近代経済の発展に大きく貢献した人物として知られています。
この記事では、渋沢栄一が一万円札に選ばれた理由や功績をわかりやすく解説します。
目次
1.渋沢栄一はどんな人?
・渋沢栄一の生い立ち
渋沢栄一は1840年、現在の埼玉県深谷市で農家の家に生まれました。
家では藍玉の製造や養蚕を行っており、幼いころから商売に触れて育ちました。
若いころの渋沢栄一は、父の仕事を手伝いながら各地へ商品を売りに行っていました。
この経験の中で、人との交渉や商売の仕組みを自然と学んでいったといわれています。
また学問にも熱心で、儒学や歴史を学びました。
特に中国の古典である『論語』の思想に強い影響を受け、後の人生の考え方にも大きく関わることになります。
当時の日本は幕末の動乱期であり、若い渋沢栄一も時代の影響を受けて尊王攘夷の思想に傾いたこともありました。
しかしその後、一橋家に仕えることになり、人生は大きく変わっていきます。
・幕末の経験とフランス渡航

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渋沢栄一は一橋家に仕え、後に将軍となる徳川慶喜の家臣として働くようになります。
その働きぶりが評価され、幕府の重要な仕事にも関わるようになりました。
1867年には、パリ万国博覧会に参加する使節団の一員としてフランスへ渡ります。
この経験は、渋沢栄一の人生に大きな影響を与える出来事でした。
当時のヨーロッパでは銀行や会社制度などの近代的な経済の仕組みがすでに発達していました。
渋沢栄一はそれを実際に見て、日本との違いに強い衝撃を受けたといわれています。
彼は日本の将来のためには、このような近代的な制度を取り入れる必要があると考えるようになりました。
この経験が、後に日本の経済制度づくりに関わる大きなきっかけとなります。
・明治政府での活躍
1868年に明治維新が起こると、日本は新しい国づくりを進めることになります。
渋沢栄一は新政府に招かれ、大蔵省で働くことになりました。
当時の日本は近代国家としての制度が整っておらず、財政や税の仕組みを作る必要がありました。
渋沢栄一はこうした制度づくりに関わり、日本の経済の基礎を整える仕事に携わりました。
しかし政府で働く中で、彼は民間の力が国の発展には欠かせないと考えるようになります。
そして1873年、安定した官職を辞めて実業界に進む決断をしました。
役人としての地位を捨てて新しい道を選ぶことは、当時としては大きな決断だったといわれています。
・実業家として日本経済を支える

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官職を辞めた渋沢栄一は、日本の産業を発展させるため実業家として活動を始めました。
最初に関わったのが第一国立銀行の設立です。
銀行は企業活動を支える重要な存在であり、日本の近代的な金融制度の基盤となりました。
その後も鉄道会社や製紙会社、保険会社、鉄道会社など多くの企業の設立に関わります。
渋沢栄一が関わった企業は約500社ともいわれ、日本の産業発展に大きな影響を与えました。
また企業経営だけでなく、日本赤十字社、日本女子大学、早稲田大学など600もの社会事業にも関わり多くの学校や病院の設立を支援しました。
このような功績から、渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれるようになりました。
現在でもその思想や功績は高く評価され、日本の近代経済を築いた人物として知られています。
2.なぜ渋沢栄一は一万円札に選ばれたのか

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2024年に発行された新しい一万円札の肖像には、渋沢栄一が採用されました。
これは、日本の近代経済を築いた人物として高く評価されているためです。
渋沢栄一は日本の産業発展や教育・福祉に大きく貢献しました。
さらに彼は「論語と算盤」という考え方を広めました。
これは道徳と経済は両立するべきだという思想で、利益だけでなく社会全体の発展を考えることが大切だと説いたものです。
このように、日本の社会と経済の発展に大きな功績を残したことが、新一万円札の肖像に選ばれた大きな理由といえるでしょう。
3.まとめ
渋沢栄一は、日本の近代経済を築いた実業家であり、多くの企業の設立に関わり、日本の産業発展に大きく貢献しました。
渋沢栄一の生きざまや考え方は、現代の社会やビジネスにも多くの示唆を与えてくれるものといえるでしょう。